昭和四十七年八月二十九日 朝の御理解
X御理解第三節 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」
 天地金乃神と申す事は天地の間に氏子があるという事。天地の言うなら、御恩恵の中に人間氏子だけでなく、もう生きとし生きるものがあるという事。けれども他の動物はね、恩恵を説き聞かせることも出来ない。恩恵を恩恵と悟らせる事もできない。只それが分かるのは人間氏子だけなのである。その人間氏子が、実はそうした天地の御恩恵を知らずに、まあ自分勝手な生き方をして、言うなら間違った生き方をして、そういう事が難儀の元になって、苦労をしておるという訳なんです。今日はそこんところを、こういう風に頂いて頂きたい。
 天地の間に住まわせて頂いておる人間、他の動物ではいくらかんで含めるように言ったって分からん。生きとし生ける者、天地の御恩恵に浴しておる。けれども浴しておる事すらも分からない。けれども人間でもそういう人間が多いのですけれども、人間は、言うならば、言うて聞かせれば分かる。そこに今般生神金光大神を差し向け、という事になるのじゃないでしょうか。それもやはり人間のまあ言うなら、欲望であるところの、おかげと言うか、御利益という、自分のあゝしたい、こうしたい、と思う事が成就する事によって、そこに神様を信ずる事になる。
 そこからいわゆる願う氏子におかげを授けてとこうおっしゃる。言うなら手なずけてという事。おかげをもって人間を手なずける。まあ、よくない表現ですけど。そしてそのおかげを見せながら、そのおかげをやりながら、本当な事を教えてやる。いわゆる理解申して聞かせというのは、どういう事かと言うと、天地の中に氏子があって、そのおかげを知らない事をおかげをおかげと感得させるという事。悟らせるという事だと思うです。
 例えばその例として、神仏の宮寺氏子の家宅、皆神の地所などという所は、もう全然私共が見当違いな思い方をしておる。皆神の地所、一切が、言うならば神様の御ものとして悟られた甘木の初代なんかの素晴らしかったのはその事なんです。一切が神様の御ものとして大事にされた。だからそこに、そういう例えば、その、だから理屈を言わずにです。本当に神様の御ものだと分からせて頂いたらね、その御ものとして大事にする姿勢を作るが一番です。そげなこつがあるもんかい。これは私が働いて、儲けでえたつよ。これは私が建てたつよ、というとる間は、おかげにならんのです。それが何故かと、間違いだからです。
 だから私どんが場合には、そんなら、直ぐ側にです。甘木の初代という大徳を受けられた大変な先生が、どうしてあゝいう大徳を受けられたか、と言うと、神様の一切が御ものである、と頂かれた。家も屋敷も一切が、この命までも、神様の御ものである。だから粗末な事は出来ない。昨日の御理解でいうなら軽う見る事は出来ない、という事になってきた。そこでそんならお金ひとつ使われるでもです。当時百円と言や大金でしょう。神様ごとに使う百円ならです。一円の金を使う思いで使えと、教えられ自分もそれを行じられた。自分の事に使う時には、やむにやまれんで使う事があるのです。時には一円の金を使うでも、百円をも使う程しの思いで使えと教えられた。
 そこにね、甘木の初代の大徳を受けられる元があったんですよ。その理知らずとおっしゃっておられる。本当な事を知らずに。だからこゝにハッキリ私共が場合にはそこに、実証をされておられる方があるという事をね。だからこれは多くの、おかげを受けられた方達の場合はみんなそうです。そういう思い方と言うか、そういう思いが本当なんだ。自分のつばってん。まあ神様んとと思わにゃいけん、というようなもんじゃないと言う事。しかもそんなら、これは神様のもんならガンガン使うちよかという事もない。
 神様の御ものだから、百円の金を使うでも、一円の金を使うでも、当時の‥‥百円の大金を使う思いで、神様相済みません、使わせて頂きます、と願いに願い、お詫びにお詫びをさして頂いて、使うという位、なお気持ちが生まれた訳です。私そこんところの例を、日柄方位ばかり見て、無礼致し前々のめぐり合わせで、難を受けおるという事なんかもやっぱりそうだと思う。日柄方位なんてものは人間が作ったものなんです。もうそれをだから言うという事ですらが、御無礼な事です。
 先日もある方がある教会で総代をしておる。その奥さんが参って来てから、北九州の方におった息子達が今度こちらの方に勤めが変わったから、自分の実家から行くという。親子三人で帰って来た。そこでその、ある教会の総代をしておったというお父さんが言う事です。あれ達夫婦を二階が空いてるが二階住まいにさせたら、もう絶対成功せん。だから下の方をどげんかしてから、下の方に住まわせんならん、とこう言う。それにはいろいろな迷信的な訳がある。そしてほうら、誰々さんも二階に住んじゃったけんで、あげなこつなったろうが。誰々さんも二階に住んじゃったから、こうなっとろうが。
 もうその人はですね、表へ奥さん達が出られる時に、右の足か、左の足からか出らにゃんごときまっとるそうです。ほうらお前は反対の足をでえたと言うて出直さっしゃる位に、やかましいんです。そげん神経が迷信的な事になってしまっておる。もう私どんが嫁入って来る時には、お母さんからそうじゃったげなが、もう大変ないらん修行させられた、とこう言われる。金光様の御信心頂きゃ、絶対そげな事のあろうはずはない。いや、そういうこと言うこと自体が無礼だと。天地の中にある働きの、中に、それこそ指一本でも、あなたのおかげを受けんでよかですよ、というところはないのだと、実を言うたら。
 それに例えばそういう、天地に墨金をつけるような行き方が、前々のめぐり合わせで難を受けおる。そういう事が、御無礼になってめぐりが出来ておるんだと、ハッキリ教えておられるのですから。私共は本当にこゝんところを、縁起を作るとか、何とかと。私も大体は縁起を作るという事は好きです。よい意味でならば、例えば他所へ旅立ちなんか致します時に、私の母は必ず、お頭つき、お赤飯、炊いて祝ってくれました。
 だからそれを迷信と言や、迷信でしょうけれども、その私は、心が素晴らしいと思うのです。気分がえゝ、その気分のよいという事がおかげになるのです。これは間違いないのです。けれどもだから反対の迷信だけは、御免蒙らなければならないのです。よい意味の事ならば、いゝです。私は一遍御本部参拝した時に、奥城で、後ろからはゝあ、この人は大阪方面の人だなと言葉つきで分かった。そしたら、御祈念しょうと思うて、こうやりなさったところが上から、クモがスルスルスルスルと降りてきたんです。そしたらパンパンと柏手打ってから、おかげ頂いた!と言うて、パッとこう懐の中へ入れらっしゃった。
 だからそういう意味でなら、いゝじゃないか。もう絶対その人は、金銭に、しかも教祖の奥城の前で、そうだったから、もうおかげ頂く。金銭に不自由せん、というようなおかげになるに違いない。だから縁起も必ず、悪い事の場合はいけないけれど、よい意味合いでは、私は寧ろ信心によって、そういうものを作っていく事は、有難い事だと思うです。クモやらを懐の中に入れる事はあんまりよくありませんけれども。‥‥そんな事が一遍ありました。
 ですから例えば日柄方位を見るというような事でもです。それは世間で言われておる事だからそうすると、いうだけでよかろうごたる。二階に寝たら、人間が成功せん。悪い事が起きると、そう思うから起きるのです。それで私は、今あげな団地なんかの何階建て何十階建てという人達は皆んな、それは困った事にならっしゃらないかんですね、と私は言うた事です。もう理屈にならない事を、自分で作ってる訳です。迷信の日柄方位というのもそういう意味で人間が作ったもの。
 だからその為にです。今般生神金光大神を差し向けて、本当な事を教えようと、だから本当な事を教えるぞ教えるぞと言うても、中々人間が強情だから、言うこと聞かんから、言うなら病気で苦しんでおる。人間関係で苦しんでおる。様々な、その難儀から、助けてやる事の働きと言うでしょうか。おかげを授けて、そしてそこから段々、本当な事を教えようというのが、天地金乃神様の願いである。そこからです。願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ。だからこうして、御理解を頂いたら、それが本当の事、真理と言うか、真実の事なのですから。それをそうだと、信じてそれを行じなければいけません。
 そこからです、末々繁盛致す事、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つように致す、とだからぎりぎりのところはです。天地金乃神様もこゝのおかげを頂きたい、という御願いが、感じられます。神様と氏子が、言うならあいよかけよで、立ち行くところのおかげ。それを願わせ給うのが、天地金乃神様。天地金乃神と申す事は、そういう事だという事に、結論が出てくる訳です。
 昨日、今度記念出版があります。記念祭に、‥‥私の、言うなら半生記とでも申しましょうか。今日迄おかげを受けて来た事を、青年教師の方達にお話をした。そのお話を全部まとめて、御本にする。同時に最後に、これは筑水青年会の方達に、お話をした。和賀心時代を創るというテーマの元にお話をした。だからそれも合わせて、一冊の本が出来る。それでもういろいろ、それをする為にもう、日曜たんびに随分前から、あそこえ五、六人の方達が集まって、やっております。大体それが出来ましたから印刷をなさる。それを福岡の御信者さんで有名な大里さんという方が見えられて、最後の打ち合わせがあった訳です。
 それで、私もちょっと出てくれと言うから、まあ出ましたんですけれども。まあいろいろに信心のよもやま話からでございました。福岡の現在の親先生が、最近もう組織はいらんと言われるという事を聞いて、はあー素晴らしい。それは心境の開きですねと言うて、私は感心致しました。今教団では、それこそ組織を作れ、という事がやかましい位に、組織を作らなければいけない、と言われておるのにです。そういう組織はもういらんとこう言われておる。言うならば神ながらなおかげを頂いていかなければ出来るこつじゃないという事を、まあ悟られたんじゃないでしょうか。
 と同時に昨日また、それこそ不思議な位な思いで聞かせてもらったんですけれども。久原教会、これは日本一の組織があるというので有名です。少では日本一と言われる位な大きな教会です。こゝの先生は組織作りの名人として、全教から、ひっぱりだこです。どういう風にして、その組織を作られたかという事なんです。その人が先日、大里さんといろいろお話をさせて頂いておるうちにです。久原も、もう行き詰まりが来た。もう組織に縛られてね。もう組織には壁があると、これはもう本当にようやく、そこに気がつかされたという意味の事を話されたというのです。
 素晴らしいですね。それで私は申しました。「こゝの場合はどうですか」と言われるから、「こゝの場合はね、組織がありますよ。けれども私が作ったのではなくて、出来たのですよ」と私が申しました。「いゃあ素晴らしい」と言うてから、言われる。こゝの場合は作ったんじゃないのです。出来たのです。これは私の信心を中心としてです。そしてこれは組織を作らなければならんんとして、これは私が作ったのではなくて、神様が、言うなら秋永友良又は高橋定利といったような、言うなら、こゝで煩悩の人達を集めて出来たのが合楽の組織です。
 ですからもう絶対に私が作ったのではなくて、私の信心の働きが、彼達を、その手に足に使うて出来たのが合楽の組織です。ですからその組織の進展と言うか、神ながらな事には驚くですよ。例えばこの前からの大祭の時なんか。こゝの御神殿の清掃は、菊栄会がやっておりました。そういう受け持ちだった。それが最近では松栄会の方達が、もう中心になってやるようになった。
 今度の御大祭に私は、びっくりした事は、その松栄会の方達も四、五人おりましたが、十人余りの人達は黄揚会の方達でした。所謂その菊栄会から松栄会、松栄会から黄揚会の若いところへですね、もう誰あれも作らんでもそういうのが出来ていく。だから出来とった組織をまた作り直さにゃんという事はない。無精(?)に出来ていく。そういうようなものがです。合楽の場合はおかげだと思う。作ったのではない。合楽の場合出来たのだという事。そこでです。一番最後の神様の一番願いとされるところがです。氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つように致します、という事。その事をこゝで実現する事の為に、今迄のこゝの御理解があった訳です。
 だから間違った事は間違った事として、指摘して教えて下さる。こういう生き方が本当だという生き方をさしてもらう。そこからいよいよ本当の事が出来てくる。例えば真実の願いといったようなものが出来てくる。真実の願いには、神の思いがある。神の願いがある。言うならば、神の願いと氏子の願いが一致する点がある。神様の願いと氏子の願いが一致する。そこからね、上下立つようにという事になり、言うならば氏子も立ち行けば上も立ち行く。所謂あいよかけよ、での道が開けてくる。
 私共の願い、真実の願いというもの。そこで私共の願いそのものをひとつ検討しなければならない、という事になってくる訳です。大里さんが、「こゝへ来まして、もう驚きました」と。「何ですか」と言うたら。こちらへ参りましたら、高い塔に和賀心時代を創ると書いてある。もうこの事の素晴らしい。しかも創るという字を創造の創という字を使っておられる、という事。もう私は驚きました。と言うて言われるのです。
 今度の、所謂お書き物が出来ます。そのタイトルがいる。本の題名を作らなきゃならない。それで私は若先生に、いわゆる私の言わば、今日までの半生を、ずーっとお話をしてきておる。生まれた時から今日までお話をして、最後に和賀心時代を創るというのが、現在の合楽の信心を語っておるのですから、結局和賀心時代を創るという、講題のもとに話をしておる。それを、そのまま本の題名にしたらどうか、と私は言ってたんです。
 それがどうも皆んな合点がいかんような風をしてましたけれども、大里さんが、もうこれより他なかて、これを題名になさいませ、と言うて、だからそれでほとんど決定した事になりました。神様の願いという事は本当に、この世の中に、和賀心時代を創る、という事が神の願いであり悲願なのだ。その願いの、私共は手にならせて頂こう、足にならせて頂こうというのが、言うならば今日の御理解です。それにはね、私共が真実の事、本当の事が分からないとです。神様を手足に使おうとする。神様を小使いのごと思う。神様ちゃお願いするもんのごと思う。重かもんを持ちきらんから、さあ神様いっちょ加勢して下さい、というような行き方の信心になってくる。だから私共の真実の願い、というものが本当な事になってまいります時に、言うなら神様中心、という信心になってくる。だから神様がまた、氏子中心になって下さる。
 言うなら氏子が神様任せなら、神様がまた氏子任せになって下さる、という働きが生まれてくる。こゝにはね、作った世界ではなくて、出来る世界がある訳です。作る世界ではなく出来ていくところの世界。それには私共が神様を中心に申し上げる。神の願いを願いとして、さっき申しましたように、神様の願いと私共の願いが、こゝに一致する点が出てくる。そういう願い。
 そんならそれは病気の事も願ってよければ、商売繁盛の事を願ってもよい、人間関係の事も願ってよい、という事なんです。けれどもその願う芯が、今日のところを分からせて頂いての、願いでなからなければならない、という事。天地金乃神と申す事は、そういう事を分からせたい。そして分かって、それが行じられるところから、理解申して聞かせとおっしゃる理解を聞かせて頂いて分からせて頂くところからです。神の願いを願いとしての信心。いわゆる神恩報謝。天地金乃神様のお恵みの中に、生かされておりながら、生かされておる事も分からず。御恩徳のものを、頂いておる事も、知らずに過ごしておる人間氏子に、その事をわからせ、今般生神金光大神を差し向けて、その本当な事を教えるのだ。
 そこから教えを受けて行ずるところから、甘木の初代のように、本当に一切が神様の御ものだなあという事が分かる。枯れ枝一本だって枯れ葉一枚だって、ほご紙一枚だって、皆んな神様の御ものだと、悟られた時に、それを大事にしなければおられなくなってきたのです。そこにあゝいう大徳を受けられたという事実がある。こゝの場合は、まだまだですけれどもです。私はそこんところを、御事柄と分からせて頂いた。起きてくる全ての事柄をです、神様の御働きとして、受けていこうと一生懸命、精進しておるのが合楽なんです。だから私は合楽はおかげを受けると思うのです。
 そこからね、言うならば神の願いが成就する。神の願いが地上になる。人間氏子の上にそれが表れてくる。そこからです、神様の真の助かりがあり、氏子の真の助かりがあり、初めて氏子あっての神、神あっての氏子、上下立つように致すというおかげの理想郷が、そこにある訳です。おかげを受けるという事は、そういう事なんだ。お願いをして、これが成就したというのは、願う氏子におかげを授けという一番手前のところなんです。理解申して聞かせとおっしゃる、その理解を頂いて、行の上に表わして神の願いを願いとしていく生活。
 そこから日々、それこそ溢れるような、こぼれるような有難いものがですよ。こぼれるようなおかげになってくるのです。私共は自分では気が付きませんけれども、合楽にご縁を頂いたかぎり、いわゆる金光様の御信心の縁を受けたかぎり、もう天地のそれは微妙な迄の働きの中に、一切があるのです。私は昨日も驚きましたんですけれども。森部の高山さんが昨日お参りされてから、お届けされるのに、親先生、先日、二十五日の研修会の時に、私の隣に座っておられた方が、先生あの方ですよ。五、六年前私に、泥棒呼ばわりされた方は、と、私はびっくりして、ほんにそげなこつもあったなと、言うてから。私はね、某の信者で、もう肺病でおかげ頂いてから、某ではもう有名な信心者だと。だから私は嘘は言わん。もう、今、絶対、こゝに置いたお金を、何か京染の注文取りのような事をしておられた。
 そして高山さん所にたまたま見えてから、そこの置いた金が無くなった。誰あれも、来とらんけん、あゝたが取ったと、もう、言い張んなさるそうです。その事がほんに五、六年前そんなお届けをされた事を思い出させて頂いた。その泥棒呼ばわりした人が私の側え座っちゃるから、もうびっくりしましたと、こういう事なんです。そして合楽の信心を頂きたい。そして最近では金光様の先生にならせて頂く為の、修行を一生懸命しよんなさる。
 不思議な事ですねえ。その働きというものが、勿論それから暫くしてから、お金を何処かで貰ったはずのつを、貰ってなかった。そこへ行ったところが、この前のお金を上げましょうと言われたけんで、高山さんの所で、泥棒呼ばわりした事を、本当に相済まんという事で、お詫に出て来られたという事でありますけれどももね。例えば本当にそういう事でもたった、話はそれだけばってん。それ迄に神様がお働き下さっておる働きというものは大変な事ですよ。昨日はそういうような事が一、二ありました。
 だからそういう眼には見えない、感じないけれどもです。そういう神様の御神縁の糸にね、お互いが操られて、あの事があり、この事があっておるのですから。もう信心させて頂いて金光様、と言うたが最後、親先生のお取次を頂いたが最後、そういう働きの中に、その事柄はあっておるのだから、御事柄ですよという事なんです。ですからその私は、昨日竹葉会の方達に、丁度たまたまこゝ二、三日で来とる手紙がみんな、こゝに修行に来た先生方やら、こゝで教えを頂いた先生方やら、が大変おかげを受けてから、の手紙が、四、五通来てましたから、それを皆さんに読んでもらってです。例えばほんのわずかしか来とらん、人達がです。合楽でこういう素晴らしい事を頂いた、分かったと、喜んでこれは、只ほめ言葉だけじゃない、と私は思うて。
 だから皆さんどうですか。合楽の信心にひたっておるようであって、そんなら、どこをお互い合楽の信心を頂いとるですか、と言うて、こゝからお話させて頂いた事でした。そうしてみるとです。主人じゃない、親じゃない、という事になってくりゃせんかと、言う事をね、分かるところを、今そんなら合楽で、御事柄としての、頂き方というようなものがです。どんなに間違いのない真実の願いであるかと、いう事が分かる。その願いに応えての信心生活をさせて頂く事によってです。上下立つ、神様も助かって下されば、私共も助かっていく道が開けてくる訳です。
 私は金光教のおかげ観と申しますか、金光教で観るおかげはかく観る、というのですから。今、共励会なんかに参りますと、おかげ話なんかをすると、馬鹿んごと言われます。それはいわゆる本当の金光教で言うおかげにそれておるからなのです。願う氏子におかげを授けというおかげだからなのです。本当はそれから先に、理解を聞かして頂いて、それを行の上に表わしたら、このようなおかげに表れてきた、というおかげ話でなからにゃならん言うのも、やっぱりもっともだと思います。そこからです、神様を顕す事が出来る。神様も助かって頂く事が出来る。そこに私共の助かりがあるのは勿論の事ですよね。どうぞ。